子どもが不登校になった時、こんな風に言われました。
「一番辛いのは子どもなのだから。お母さんしっかりしてください。」って。
もちろん、そうですし、それは重々わかっています。
わかっているのですが、親である自分の気持ちも誰かに受け止めて欲しくて、でも誰にも言えなくて、元気が湧いてこない。そんな時期もありました。
私は、子どもが不登校になった時に、それまで自分のやってきた育児が間違っている、と言われたような気持になってしまいました。
子どもが長い間、重い心で過ごしていたのかと思うと、母親として気づけずにいた自分を責めました。けれども、全てをどっかりと受け止められる器もないので、感情があふれ出て混乱していました。
それだけではなく、学校の勉強や目の前のテストのこと、そして進学のこと、将来のことなど、とにかく急にレールから脱線してしまった我が子を、どうやってもう一度レールに戻すか、戻れなかった場合はいったいどんな道があるのか?といったような不安にさいなまれていました。
自分一人では抱えきれず、助けを求めるにも、何を?誰に?どう助けを求めたらよいのかもわからず、目下の問題である学校の先生に相談してみるという感じでした。
けれども、我がままで自分の都合ばかり押し付ける親だと思われることを懸念しました。そして、また葛藤が膨らんで、その重圧が嫌で、大丈夫そうな時を見計らっては、なんとか学校で過ごさせようとした日もありました。
状況は動かないのに、何とかして舵取りしようと必死でした。
良かれと思ってやっていたのですが、全体を見る余裕がありませんでした。
子どもは苦しくて思い切り休むことはできなかったでしょう。
何かにすがりたい想いが強かった時、朝の登校時間に学校に連絡帳を届けに行く時に、迎えに出てらっしゃる特別支援の先生にこぼすことがありました。
心のよりどころだったのですが、その先生がある時、「ゆっくり構えて。半年くらいすれば大丈夫よ。」とおっしゃったときには愕然としてしまいました。半年もつき合うなんて無理…。明日にでも行って欲しいのに・・・。そんな風に思っていた時期もありました。
当時、自分も心身の不調があったので、余裕がなかったのだと思います。
母親である私たちは、しっかりしなくちゃ、守らなくちゃと思っていますが、そうはいっても一人の人間で、両親の元に生まれた一人の子どもです。
生きて来ただけの歴史があって、それが判断材料となって感情が創られるのですから、子ども時代の自分も、その自分の経験や感情も当然自分の一部です。
そこに、しこりが残っていると、やはりどこかで、何か似たような出来事に出くわした時に、疼くということがあり、私の場合は不登校で正にその疼き、その大元のシコリをクリアにする時間をもらったとも思っています。
当時は、自分の知っている子育ては、両親の育て方のみなので、自分が子ども時代に嫌だと思ったことはしないように努力し、自分がしてほしかったことを提供するのが正しい、と何の疑いもなくそう思って過ごしていました。
けれども、それは違っていて、例え自分のお腹から生まれた子どもであっても、みんな一人の人間で、感じ方も考え方も、欲しいものも、やりたいことも、全て違うのだということを、心の底から実感するに至りました。
そう気づけたのは、それまで優先順位を下げまくっていた自分の時間を取り戻したことがきっかけでした。
人に何か「してあげて」、感謝されたり、給与をもらうことで自分を満たすのではなく、自分を自分で満たす方法を知るための学びの時間を持ちました。
同じようにしんどさを持つ仲間が、ある心理士さんの元に集まった会でした。
そこで出会った仲間とは、毎回想いをシェアしあいながら、何のジャッジも言葉もなしで、ただ受け止め合いました。
その頃の私は、自分の母を亡くしたばかりということもあって、毎回誰よりも泣いていたと思います。
始めの頃は、自分の状態と、子どもを置いて行くこととの両方が心配で、外に出ることすら怖くて、勇気が要りました。
そんな状態の自分を受け止めてくれたその場での出会いや、そのスタンスは、それまでにない深い癒しとなり、今の自分の原点となっています。