わが家の小学三年生の一人娘は、二年生の冬休み前から「学校に行かない」という選択をして現在はホームスクーリングを実践中です。
強いられてイヤイヤする「勉強」ではなく、
自ら知りたい、挑戦してみたいという興味関心を伴う「学習」へと、この一年間の月日の中で試行錯誤しながらシフトチェンジしてきました。
三年生の一学期は一度も登校しませんでしたが、夏休み明けから現在は本人の希望により週に1日か2日くらいの頻度で母子登校して、クラスのみんなと一緒に授業に出ています。
「不登校」
ではなく、出たい授業に出る
「フリー登校」
という言葉がしっくりくるかな、と感じています。
アメリカでも「ハックスクーリング」というテーマでスピーチをして話題になった少年もいますよね。
現在は「新しい学び方を実践している」
というワクワクな気持ちが強く、母娘がお互い機嫌よく過ごせていますが、ここに至るまではいろいろな感情の渦に飲み込まれて自分を見失いそうな時期もありました。
【どんな状況が辛かったか】
学校は「できないことができるようになる、一から学んで成長できる場」だと思っていましたが、実際入学してみるとそうではなかったことに私も娘もショックを受けました。
初めての環境で先生との信頼関係を築く間もないまま、慌ただしく忙しい時間割をこなしながら、指示と命令、禁止、規律だらけの学校生活。
大多数の子どもたちにとっては「やりたくないことを我慢するのは当たり前、みんなと同じでなければならない」という学校に漂う雰囲気は気にならないのでしょうが、感受性のアンテナが強すぎる娘にとっては居心地がよくなかったのでしょう。
次第に学校側からは「不適応」ととられる言動を起こすようになりました。
母親の私は娘の良いいところをたくさん認識してますし、思いやりがありよく気がつく優しすぎる子だとわかっているのですが、不安と緊張の連続である学校生活においては娘が強い拒否反応や防衛本能のために反発してしまうことが増えてしまいました。
のちに娘自身が話した言葉です。
「学校にいると、こわくてイヤでいつもの自分でいられなくなる」
私が知っている本来の娘の姿と先生から聞く娘の学校での様子のあまりにも大きなギャップが何故生じてしまうのかがわからなかった時期が、一番辛かったです。
【変化のきっかけ】
どうして先生に反発するんだろう?
どうして学校ではそんな振る舞いをするんだろう?
どうして学校では落ち着かない様子で怒りっぽくなってしまうんだろう?
入学してから二年生の秋ごろまで、私自身も頭の中は混乱していましたし、そのイライラを娘にぶつけたこともありました。
その状況が変化したきっかけは三つあります。
一つ目は、「HSC ハイリーセンシティブチャイルド ひといちばい敏感な子」という概念との出会いです。
さきに述べたように、家庭と学校でどうしてこんなにも娘が別人のようになるのか?という疑問が常にありました。
そしていろいろなことを調べる過程で、HSC についてたどり着きました。
ネットで調べた後に書籍も手に入れたところ、まさに娘が生まれた時から当てはまることばかりでカミナリに打たれたような衝撃でした。
と同時に、学校生活が感受性の強い娘にとってどれだけ過酷な状況なのかが理解できました。
そして私自身も少なからずその感受性や敏感さを持っているということにも気づき、入学以来感じていた学校や先生方の言葉に対して感じてきた違和感も腑に落ちる結果となりました。
そのタイミングで、
「学校にいると、いつもの自分でいられなくなる。怖くて不安でいっぱいになっちゃうの」
と娘が胸のうちを語りました。
この世に生まれてたった8年の子どもがこんなふうにSOSを表現するなんて…
胸が張り裂けそうにせつなくなりました。
ただ、このひとこととHSC の概念が結びつき、心が大きく動きました。
「学校には行かない」ことを選ぼうと。
二つ目は、世界にはいろいろな教育方法があり、ホームスクーリングという学び方もある、ということを「知っていた」ことが大きかったです。
娘が生まれる前に勤めていた職場で、実際にホームスクーリングで育った日本人とアメリカ人の同僚がいて、学校では学ばなかったいきさつや大学での学びについてを世間話の流れで聞いていた経験がありました。
娘にとって、学校生活は刺激や情報が多すぎて神経が疲れてしまうのだろう…と理解が進み始めた時に、「ホームスクーリング」という学び方もあると以前聞いたことを思い出したのです。
もしかしたら娘は家で安心した気持ちで穏やかに学ぶ方法が合っているのかもしれない…と私自身の気持ちが穏やかに変化していくのを感じました。
ほどなくして図書館で偶然、
「子どもは家庭でじゅうぶん育つ」(東京シューレ編)
というタイトルの本を見つけ読んだところ、学校へ行かないことを選択したさまざまなご家族の実体験を知ることができました。
さっそくその本にあるみなさんの経緯や家庭での実践を娘と一緒に読み、「学校で学ぶことが全てではなく、ホームスクリーングという方法もあるんだよ」と伝えました。
すると娘は、
「私、学校にはいたくないけど、勉強はしたいと思って苦しかったの。ホームスクリーングはおうちが学校になるんだよね?だったら、おうち学校の方がいいな」
「学校に行きたくないのは私だけじゃないんだね。おうちで勉強する子も、たくさんいるんだね。私だけだったらどうしようって、ずっと心配だったの」
と泣きながら話し…、そんな娘の姿を目の当たりにして、私の決断もますます固まりつつありました。
こうして二年生の冬休みまえの1ヶ月間、学校から離れて母娘共に本来の明るさと元気さを取り戻しつつ、年明けに一緒に母子登校した二週間の期間で私自身が体感したことが三つめのきっかけでした。
何を体感したかというと、学校自体の騒がしさや慌ただしさと、担任の先生やクラスメートが発する否定的な言葉のシャワーです。
具体的にどんな言葉だったのかは控えますが、「先生の人権感覚は一体どうなってしまったんだろう」と疑問に感じるものばかりで、私に対して発せられた言葉ではないにも関わらず、教室の後ろで聞きながら本当に苦しい思いをしました。
先生にそんな言葉をぶつけられ、ヒステリックに怒られた子がその鬱憤を他の子に当たり散らす…。
きっとその言動だけを切り取ってしまえば、その子は「問題児」扱いされるのだろうな、でもそうさせている原因が言葉の暴力だということはこの閉鎖的な環境では明らかになることはないのだろう…。
そんな場面を何度も目撃した私は、ついに2週間後の朝、布団から起きれなくなってしまったのです。
こうして娘が学校で感じていた怖さ、居心地の悪さを自分自身が体験したことにより、迷いはなくなりました。
このような経緯で、「学校へは行かない」「おうち学校で学ぶ」を家族みんなが晴れやかな気持ちで選ぶことができたのです。
【気持ちや感じ方の変化】
学校へは行かずにホームスクリーングで学ぶ、という決断をする前とした後の感じ方の変化は、
「迷いや不安という得体の知れない妄想が、前向きな気持ちに変化した」
と表せると思います。
学校に通っている時は「いつもの自分でいられなくなる」ほどだった娘が、家では嬉々として自分がしたい学習に集中して取り組み、「私、おうち学校の勉強は大好き!楽しいから!」と見せる笑顔。
そして自ら題材を選び学んでいるので
「この前できなかったことが、今日はできるようになったから成長したんだね、私!」と自分の成長も実感できるようです。
まだホームスクリーングを実践しながら模索の途中ですが、こんな学び方ができることは実はとても贅沢な時間なのではないかな、と思えるほど前向きな気持ちになっています。
また、学校にいるといつも時間に追われ、何事も他者との比較と競争になってしまう傾向があるため、息苦しい気がしていました。
大勢の生徒を相手に一斉に授業するので仕方ないことだと理解していますし、そのような学校のシステムを批判するつもりもありません。
ただ、学校に行かないことにより、
・時間に追われなくていい
・指示命令のシャワーを浴びなくていい
・他の子と比べなくていい
・競争しなくていい
・決められたカリキュラム通りの勉強をしなくていい
という「しなくていい」を獲得できました。
このことが私たち母娘の今現在の心の平安に繋がっています。
【子どもの様子】
三年生になりクラス替えもしましたが、ホームスクリーングで娘がいきいき過ごしていたため、夏休み前は1日も登校しませんでした。
夏休み明けは、図書の時間に行きたい、親友に学校でも会いたいという娘の希望があったため、週に1日か2日だけ母子登校をしています。
最初は緊張していましたが、二年生の時とは違い穏やかな先生でクラスの雰囲気も良く、娘も少しずつ安心して過ごせるようになっています。
担任の先生によってこんなにも生徒の様子や言葉使いも違ってくるのか、と私も驚きました。
ただ、長時間の学校生活は疲れてしまうと娘自身も自覚があるらしく、
「毎日は行きたくない。図書の時間がある時と、他に出たい時間だけなら行きたい」と話しています。
ですので、「不登校」ではなく、行きたい時に登校する「フリー登校」という表現がしっくりくるかな、と考えています。
なんで普通に学校に来ないの?とクラスメートに聞かれたこともあります。
「心配してくれてありがとう。私はおうち学校で勉強してるし、元気だから大丈夫だよ。また来週の図書の時間に来るね。」
と娘は自分の言葉で説明していました。
そんなふうに説明できる娘は、大丈夫。
ホームスクリーングで安定した気持ちで学習し、週に一回は学校にスクーリングに行くフリー登校スタイルが、現在の娘にとってはベストなのかな、と見守りながら感じています。
【いまの私の気持ち】
海外の教育事情やホームスクリーングのことを知っていたため、「学校に行けないなんてどうしよう」と悩む時間は長くはなかったものの、苦しい時期もありました。
その時期は
アインシュタインの言葉
「In the middle of difficulty lies opportunities. 困難の中に、チャンスがある」
論語の「徳は孤ならず。必ず隣あり。」
を心の支えとして唱え続けてきました。
この一年を振り返ると、この二つの言葉通りだと実感する出来事や出会いがたくさんあり、自分たちが正しいと信じることを実行してきて良かったと考えています。
また、先生たちに対して否定的な感情を抱えてしまった時期もありましたが、今は「全ての先生の心が満たされて幸せ感を抱きながら子どもたちと過ごせるようになってほしい」と切に願っています。
自分が認められている人は、目の前の人を認めることができます。
自分が満たされいる人は、目の前の人に優しい思いやりの気持ちで接することができます。
自分が主体的に生きている人は、目の前の人の主体性も大切にできます。
とてもシンプルな循環です。
ですが学校の教室では、残念ながらこの循環と真逆の負の循環が起こっていることを目撃してきました。
子どもたちに関わる先生や親、すべての大人たちがまずは満たされて他者を労わり思いやる循環を作り出したい。
そして学校だけではなく社会全体でそんな思いやり循環を起こした結果、子どもたちが今よりも自分らしく生きやすくなルナような働きをしていきたい、というのが私のいまのビジョンです。
出来ることの一歩として、まずは自分と自分の家族、大切な友人たちの間でこの思いやり循環ができるよう、目の前のことに真心を込めて取り組んでいます。
「A will finds a way. 意志があれば、道は見つかる」
この言葉に勇気づけられながら過ごす毎日です。