不登校は自分に戻るためのギフト【ブーゲンビリア①】

【他人軸から自分軸へ。不登校は自分に戻るためのギフトでした】

私には3人の子どもがいます。 現在小学4年生の長女が、自ら学校へ行かない選択をして家で過ごしています。 今のように穏やかに見守れるようになるには、ずいぶん時間が必要でした。

私自身も中学生の頃に不登校を経験しているのですが、自分に経験があっても子どもの不登校はなかなか受容できませんでした。親子2代にわたる不登校ライフ。親と子の立場、それぞれに違った大きな壁がありました。

まずは自分が不登校になった時のことからお話させていただきます。


私は三姉妹の長女として山梨県の農家に生まれました。

私よりも先に、2歳下の妹が小学1年生の頃からずっと学校へ行っていませんでした。クラスに馴染めず、お友達や先生からのいじめがあり行き渋るようになったのです。

保育園の頃から前兆はあり、周りと同じ行動をとることが難しかった妹。 当時は発達障害という概念がまだなく、不登校になる子も珍しく、「登校拒否」と言われていました。

母は、最初こそ無理やり行かせようと必死でしたが、妹は学校から逃げるようになり、大人達が行方を探すこともありました。 そのため母は当時少なかった不登校関連の勉強会に出るなどして理解を深め、妹を休ませるようになりました。

しかし同居中の祖母からは育て方を責められ、父は育児には全くの無関心。田舎のため噂もあっという間に広まります。 父は温厚で、私たち姉妹にとっては良く遊んでくれる良き父だったのですが 学校に馴染めない妹についてはどう接してよいのかわからなかったのだろうと思います。

理解者が家族にいない母はいつもヒステリックで、大人の喧嘩が絶えない家庭でした。 私はある程度器用にこなす方だったので、そんな環境の中で常に妹と比べられながら「いい子」として育ちました。

当時は、なぜ妹が休んでいるのかよくわからず、母が妹を隠すようにして過ごしていることから、とにかく悪いことをしているのだと感じていました。 家庭内の混乱は全て妹のせい!と、妹を疎ましく思っていましたし、友達にも妹のことを聞かれるのがとても嫌でした。

けれど、妹が嫌がらせを受けることや悪く言われることにはものすごく憤りを感じたり、自分だけが褒められることにも、とても嫌悪感がありました。

本当は妹のことを救いたくてたまらなかったのだろうと思います。 たまにカウンセラーさんが妹の面談にきましたが、全く変わらなかったため、カウンセラーのことも信用していませんでした。

私や妹達は、幼少期から絵を描くのが大好きで、毎日のように居間で黙々と描いていました。 小学生にもなると自分の気持ちを話すことも思えばほとんどしなくなり、絵を描くこと、それを見せることがコミュニケーションだったかもしれません。

とにかく絵を描くと褒められたので、画力だけはどんどん上がっていきました。

小学校は人数も少なく、仲の良い友達もいたり、勉強も真面目にやる方だったので毎日楽しく通っていたのですが、 中学へ入り一気に人が増え、雰囲気が一変して緊張したのを覚えています。


私は美術部か演劇部に憧れていたのですが、 地元の中学では体育会系がほとんどで、文化部はなんと吹奏楽だけ。

小学校でたまたまやっていた陸上ホッケーの流れで、先輩から「入るよね??」という押しが強く、言われるがまま練習の厳しい部活に入部していました。

自分の気持ちを素直に言うことが出来ない。

そのことを、当時は疑問にも思わなかったのです。 いつもどこかでちゃんとしないと、嫌われないようにしないと、と思っていた気がします。

部活のメンバーも個の強い子が多く、必要以上に周りの空気を読むようになり、なんだかビクビクして大人しくしていたのを覚えています。 また、この頃から4歳下の妹も徐々に学校へ行かなくなっていきました。

うちはどうなってしまうんだろう?という漠然とした不安感がまとわりつくようになりました。

無言のプレッシャー。私だけは、頑張らないと。。。

1年の頃は部活も何とかついて行ったのですが、2年になると徐々に厳しい練習についていくのが辛くなり、家に帰ると倒れこむように休む毎日。

朝にならないでほしい…まだ中学生だというのに、先が真っ暗になるような感覚が毎日襲ってきたのを覚えています。 それでも私の中には、「休む」という選択肢がありませんでした。

そのうち、部活のランニング中に過呼吸や蕁麻疹が頻繁に起こるようになりました。 身体が拒絶していたのでしょう。 症状が出ては、しばしば見学をするように。

当時、親は休みなさいと言ってくれたそうなのですが、私は全く覚えていないのです!

そんなことは許されない。

いつのまにか自分で作り上げてしまったプライドや固定観念。

そこを崩してしまったらどうなるのか、 不安でたまらなかったのかもしれません。

休んだりしたら何と言われるのか…。

身体が悲鳴をあげてもなお、必死に「いい子」を守っていました。

しかし、さすがに症状が続いたため先生からも連絡が来て、母に病院へ連れて行かれました。血液検査をした結果、ヘモグロビンが人の半分しかないと言われました。

「過度の貧血」「ストレス制のもの」と診断され、2週間学校を休むよう、ドクターストップがかかりました。 その時初めて「あぁ、休んでいいんだ、、、」と力が抜けたのです。

医師にそう言われたから。

あくまでも私の意志ではないから・・・。

そう言い訳のできる状態になってはじめて、休むことを自分に許せたのです。


中学2年生の2学期でした。

そして、2週間休養しましたが、その後も学校へは気持ちが向きませんでした。

私までが妹のようになってはいけないと思っていたのに、身体が動かない。 そこでいよいよ焦りました。

「まさか私まで、こんなことになるなんて!」という大きな挫折感。

けれど休んだことで、身体の悲鳴と、ブツ切れてしまっていた気持ちがやっと溶けはじめて、私は無理をしていたのだ!という自覚が芽生えてきたのです。

しかし母に申し訳ない気持ちが大きく、母が祖母に責められるのではないかと、なるべく祖母に見つからないように自分の部屋で過ごしていました。

クラスメイトにはなんて言われるだろう?というのも気になったし、なんとも言えない恥ずかしい気持ちがありました。 そんな罪悪感や不安を消すかのように、 その頃はずっと絵を描き続け、没頭していきました。

描くほどに創作意欲はどんどん増して、 ノートに何冊か漫画を描いたり、日記もつけていました。 そのうち昼夜逆転になり、ラジオを聴くと魅力的な音楽番組がやっていて、創作の相乗効果に大好きなBGM!

1人きりの部屋はとても狭いのに、 絵や音楽は私にワクワクする無限の世界を広げてくれたのです。

「学校の先生は好きなことをしなさいと言うけど、よく考えたら学校で好きなことなんて何もできないじゃん」と その時初めて学校や先生への反感も生まれました。

けれど、やりたくもない部活を先輩に誘われるがまま入ったのは私です。

周りに合わせていたのも私です。

自分のやりたいことをしまい込んで、自分で考えてこなかっただけなんですよね。

そんなことも、当時は全く気付けなかったのです。

母は基本、妹の経験から私を放っておいてくれたので、ずっと家にいながらも妹達と一緒に絵を描いたり、パソコンで遊んだりもしていました。 妹の気持ちもその頃はじめて理解ができ、怠けていたわけではなくてずっと苦しんできたのだということがわかり、疎ましさは無くなってゆきました。

まだまだ不登校に理解のなかったあの時代に、三姉妹で不登校。あの頃の母の心労は計り知れません。

担任の先生が面談に来てくれましたが、 当時は上手く答えられず、私は涙を流すばかりでした。

そんな私を見て「学校で待っているけど、無理はしなくていいよ」と言ってくれ、 クラスメイトにも説明をしてくれたのでしょう。

クラスの女子や男子がたまに電話をくれて学校の様子を教えてくれたり、他愛もない話をしてくれました。

私に対して「こんな私でも大丈夫だよ」と言ってくれているようで、当時はそれにとても救われていました。

たまに疎ましい時もありましたが、もともとはコミュニケーションが好きでしたので 友達との交流は私にとっては支えでした。

ようやく心身が穏やかになってゆき、ようやく本当の私自身に戻って来れた安堵さに包まれはじめたのが、昼夜逆転の生活で半年ほどたった頃だったと思います。

絵を描いていた時に、ふと絵を描く手が止まってしまいました。

「もうこれ以上、私からは何も出てこない。ちゃんと絵を学んだり、私に元気をくれたアーティストのライブに行ってみたい。 そのためには、高校ぐらいは出ておいた方がラクかもしれない」 そんな気持ちが湧きました。

その頃は高校へ行く選択肢しか知らなかったのもありますが、家にいる自分はとても小さい存在なんだと思い、もっと広い世界で、自分の可能性を知りたい! そんな気持ちが湧き出たのだと思います。

家で過ごす時間がつまらなくなったのです。


そうして、自分から復学を決意。 中学3年生の、最初の頃だったと思います。 親に送ってもらい久しぶりの学校へ・・・。

下駄箱に入った瞬間の薄暗い風景は、今も鮮明に覚えています。

とても緊張したけれど、不思議と帰りたいとは思わずに、 「戻ってこれたんだなぁ、、!」と思いました。

不安や迷いがありませんでした。

しかも自分が不登校をしたことを恥ではなく、誇らしくすら感じていました。

友達も何事もなく受け入れてくれ、それ以降は目的が定まったことで部活には一切行かなくなりました。

一度挫折したけれど「自分で決めて戻ってこれた」という経験が、当時の私を何倍も強くしたように思います。

そして実は、私のいた公立中学校には個性的な先生が多いことにも気付きました。

常にギターを持ち歩いていたり、お坊さん業と掛け持ちしてたり、好きなバイクを乗り回して転び、怪我をしていたり。。(^_^;)

自分の不登校経験を何かの作文にしたことがあるのですが、学年主任の先生からとても褒めていただき、そこでも自信をもらえました。

3年間担任をしてくださった先生は、私達の卒業と同時に先生を辞めて、やりたかった考古学研究に進まれました。

卒業時には、「お前は頑張りすぎないこと!」と声をかけていただきました。

枠の中にいても、自分の好きを大切にできることや、生き方は選んでいいんだよ!ということを、今思えば先生方がいつも見せてくれていたように感じています。

そのおかげで、高校では自由を謳歌!(笑)

高校卒業後は美術系の専門学校へ行くと決めていたので、美術以外のことをやっておきたいと思い 公立高の普通科へ行き、部活は吹奏楽を選んでみたり、飽きたらやめてみたり、創作活動を始めて仲間と本を作ってみたり、ライブへ行ったり、バイトをしたりと、、 単位ギリギリの出席日数でしたが、日々が本当に充実そのものでした。 あの頃の遊びは全てが私の土台となり、それ以降の学ぶ姿勢や仕事に大きく生かすことができていると思っています。

これも全て、不登校になり一度しっかり立ち止まって、自分と向き合ったからこそ。

でもそうなるには、自分で決めるまで待ってくれた周りの温かな見守りがあったからだと、私は確信しています。

高校をサボって都内のライブへ行く私を、 文句を言いながらも駅まで送ってくれた母、、。

迷惑をかけたくないと思っていたにも関わらず、結局は沢山迷惑をかけて甘えてきました。

ずっと妹の手前、いい子をしていて甘えられなかった分が、もしかしたらあの頃に出たのかもしれません。

妹は発達障害の凸凹があり今も実家にいますが、今では趣味で陶芸を学んだり、家事はひととおりこなすようにもなり、家族と穏やかに暮らしています。

不登校は、親の期待やルールに流されている子供達が、本当はどう生きたいのか?

ありのままの自分を思い出す最大のチャンスなのではないか?と思っています。

日本での不登校はまるで失敗と捉えられ、 特に田舎住まい、同居されているご家庭では、我が家のように乗り越える壁が多い方も沢山いるかもしれません。

けれど、分かり合えないことに沢山の労力が奪われてしまうのは本当に勿体無いと実感しました。

不登校への理解が広まりつつある今、味方や仲間、多様な教育への理解者はとても沢山いることがわかったからです!

娘の不登校で、親の立場での壁もたくさん痛感したのですが、それはまた次回に書かせていただきます。

お読みいただきありがとうございました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする