学校に行けない。
その事実がこれほどまでに重く、人を翻弄するものなのでしょうか。
中1の夏、部活中に体調を崩し、それがきっかけで起き上がれなくなって、我が子は学校に行けなくなりました。
家が近かったために先生の車で送り届けられて帰宅しました。しかし、その後は、目を離せない状態となり、救急車を呼ぶ間もないくらい必死で傍について介抱するしかありませんでした。
そして、この日をきっかけに、身体のネジが狂ったかのようになり、体調不良が続きました。
病院で血液検査を受けた時、たんぱく値が低すぎるからと、食事を食べさせていないネグレクトを疑われました。そのくらい、何も喉を通らない状態でした。
中高一貫の進学校でしたので、勉強の遅れがとにかく心配でした。
毎日小テストがあり、順位も出るので、1年生としては、まだまだ手の抜き加減もわからず、休むことの罪悪感は強かったと思います。
学校には、授業の録画、ノートのコピー、夕方からの補講をお願いしたり、何とか勉強のブランクが出来ないように頭を捻ってお願いしに行きました。
我が子も行きたがっていたので、そのうち行けるだろう、だからその時まで繋いでいけるようにと必死でした。
とはいえ、夕方になってやっと起き上がれるようになり、制服に着替えても、フラフラしているし、顔色は信じられないくらい悪いし、本人の希望通り連れて行った方が良いのか、無理矢理にでも家にいさせた方が良いのか、親の私も訳がわからなくなっていました。
我が子もそうだったでしょうけれど、この先どうなっていくのだろう?という不安が大きく、カタチにも言葉にもならない感情と付き合う日々でした。
どうにも定義づけられない出来事を、なんとか何かに結び付けようと、調べたり、考えたり、病院に行ったり、検査したり、病院を変わってみたり、漢方を試してみたり・・・。
言動に一喜一憂して、良いと聞いたものがあれば即試そうと動いて、それでも遅々として変わらない様子に、また不安を募らせていました。
この時、本人を一番悲しませていたのは、
友達に怠けていると思われること。
そして、大好きな学校に行けないこと。
この二つでした。
勉強がハードな学校だったので、本人はあまり学校を好きではないと想像していましたが、本当は学校が大好きだったようで、行けない悲しみは、私の想像をはるかに超えていました。
とても我慢強い子で、言っても仕方のないことは言わないと心に誓っているかのようでしたが、ある時本音を漏らしてくれたことがあります。
「なぜ、自分だけこんな想いをしなくちゃならないの。」
そのひと言に込められた言葉の厚みに、胸がキュ~ンとしました。
涙をぐっとこらえて、こんな風に話したことを覚えています。
「大人になるまでに、誰でも自分の思い通りにならないことに出会うものだよ。
それが体の不調だったり、友達とのイザコザだったり。
あなたは、それを少し人よりも早く経験しているから、誰にもわかってもらえなくて、今は辛いよね。
けれど、きっと人より先に経験したことで、誰かを救ってあげることが出来ると思う。
その時に、きっと少しずつ今の悲しみが癒されていくよ。
もちろん、悲しいことなんて起こらないのが一番だけれど、悲しみを経験した人は、それだけ強くなれる。自分の強さに救われる時が必ず来るから・・・・。」
自分にも言い聞かせているような気持ちでした。
それから1年ほど経つ頃に、学校に行ってないらしい友達を案ずる姿がありました。
「メールが届かない。」と口にしていたので、メッセージを届けようとしていたようです。
届かないのは心配だし、悲しいだろうにと思っていたらある日
「お母さん。●●ちゃんから返事が来た!」と嬉しそうに教えてくれました。
我が子の気持ちがその子に届いていて、その子から「ありがとう」を伝えるメッセージだったようです。
気持ちが届いた!この事実は、大きな支えになったようです。
こんな小さなこと1つ1つに、気持ちを支えてもらいながら、子どもと一緒に進んできました。
体調不良は、2年ほど続きましたが、本人が目的意識を強く持った時に、身体も変わっていきました。
友達の影響と、先に書いた祖母との別れ、家庭教師との出会いもきっかけとなったようでした。
母(子ども達にとってはお婆ちゃん)が亡くなった後、母の枕元に、1つのマグカップが置いてありました。
それは、以前私がプレゼントした、娘と息子の顔が印刷されたものでした。
「毎晩これを眺めていたんだな・・。」
それを見て思ったそうです。
そして、ぼそりと言いました。
「もっと笑っていればよかったな。」
そう言って涙がこぼれました。
その想いはきっと天国に通じていたと思います。
その後は、おばあちゃんミラクルがおきたかのように、体調が変わり始めました。
高校進学は、系列校にそのまま進学するのは諦めて、通信制も考えていました。
その頃、友達と約束した部活に入りたい一心で、頼むから高校に入ったらスポーツをやらせてくれと言ってきました。
学校がとにかく好きだという気持ちを尊重し、そのまま進学することにしましたが、身体が心配だったので、悩んだ末に条件を出しました。
毎日、腹筋と腕立てをやること。
そして、苦手な教科の点数を上げること。
その後、私と決めた約束をコツコツ守り通し、高校に入学する時期が来た時には、部活入部の権利を手に入れていました。
子どもは何かをせずにはいられないのですね。
高校に進学してからは、公言通り体育会系の部活に入り、引退まで頑張りました。
大学の下見に行き始めた頃、とても興味を示している学校がありました。
若干迷った末に、やはりその学校を第一志望とし、なかなか苦労しましたが、目標を早めに決めたことが功を奏して、見事合格することができました。
受験にあたっては、厳しかった先生方が応援してくださり、小学校時代の先生にまでお世話になって、万全の態勢で臨みました。
リスクもある受験方式でしたが、合格をいただくことができ、その時は何人もの先生が涙を流して喜んでくださったそうです。
その大学は、自分が学校に行けなかった時期に、親身になってくれた先生の母校だそうです。
学校に行けずに悲しい想いを経験しましたが、そのことがきっかけとなり、憧れの存在が見つかり、決心に繋がる強い気持ちが育ちました。
ある時は、「中学でもっと遊んだほうがいいよ。勉強なんて、高校でリピートするんだから。」
なんて後輩にアドバイスしている姿もありました。
柔軟性と熱い気持ちを育ててくれる(*^^*)
「不登校、ありがとう」です。