温度差を埋める関わり
イクミナルがオンラインの交流会を始めてから今月で丸6年になります。これまでを振り返りながら、雑感を投稿させていただきます。
活動を始めた頃、まだ不登校の子を持つ保護者が共感者を得にくかったことを思うと、地理的な垣根を無くせるオンラインミーティングがどれだけつながりの輪を広げてくれたことかと思います。そして、不登校の児童生徒数の増加によって、不登校という現象に関心を持つ人々、ともに語り合える方々もとても増えました。そのなかで時々感じるのは、必要以上に特別視されることで解釈が加わり、事実が届かないこともあることです。
不登校をあえてポジティヴなイメージに変換しようすることや、解決するという言葉を用いることに違和感を感じます。それは、不登校という状態に決まった色があるわけではなく、「年間の欠席日数30日」というラインを超えても越えなくても、そこにあるのはその子やその家庭の生活だからです。
ただ、本来得ることのできる体験や学びの機会は狭められるため、その部分をどうするのかを考えてゆくことは必要です。また、そのことについてともに考えるというスタンスに立つために、ポジティブなイメージを持って動くことや、解決という言葉で鼓舞することもとても重要でしょう。ただ、頭をかすめるのは、現状からの変化・解決を考える前に、その一人ひとりの子どもや親の気持ち、今置かれている状態をどこまで想像できているのだろうかということです。
そこにあるものが、どんな形でどんな色をしてどのくらいの重みがあるのか。そこを知らぬままポジティブさや解決が届けられると、それがとても良いものでも、温度差によって懐に収まらないこともあるように感じます。
その温度差を縮めるのが、
【不登校の○○さん】に対する「勉強していない」「学校に来ていない」「なんとかしなくちゃならない」という関わりから、
まずは【一人の人間として生きてる○○さん】に対して
「わからないから知りたいよ」という関わり方への転換
ではないかと思います。
家でしていることが教育指導要領に即当てはまらなくても、年齢相応のイメージとは違っても、その子の人生単位でみたら役立ちそうなスキル(例えば、対話力・ファシリテーション力・メタ認知能力・リサーチ力・思考力など)を身につけたり、今それを無視しては先に進めない、その子にとって重要なことに向き合っている場合もあります。
そう言うことを知って、それに対して「不登校なのに(すごい)」みたいなジャッジをするのではなく興味を持つ。そんな些細な自然な反応がその子に対するリスペクトとして届き、それがあって初めて、自分の大事な未来について一緒に話す気持ちを持てるのだろうと思います。
勉強・登校の有無も大切かもしれませんが、それを成立させるのに必要な隙間を埋める雑談や共感。それらを生産性がないものとせずに価値を置いてみる場面は、もう少し増えても良い気がしています。
・・・・・現状、既存の選択肢が増えていながらも利用に至らない子ども達もいます。実体験と共通点を持つ家庭との交流を経て必要と感じているのが、学び環境をコーディネーションするという考え方です。
例えば学校復帰・学校外機関利用・基礎学力構築を目標に据えたとしても、そうなるまでの過程やその間の暮らし方は様々です。そして、その部分は家庭に任されがちなのですが、その状況や言葉にし難い想いを土俵に上げて一緒に調整する。振り返ると、そういう役割・存在が大きな支えとなっていました。
まずは、この概念がどういうものなのか伝える努力が必要だと認識しています。
「学び環境コーディネーション」について、教育ジャーナリストのおおたとしまささんがご自身の著書の中で取り上げてくださっています。
取材では、私たちの活動について丁寧に知ろうとしてくださいました。安心して読める一冊、是非お手に取っていただけたらと思います。
★「不登校でも学べる 学校に行きたくないと言えたとき 」集英社新書https://amzn.asia/d/4s9AUnc★以下の記事は、Leeの雑誌に掲載された本の紹介記事。https://lee.hpplus.jp/kurashinohint/2518912/