保育園と不登校
お隣の保育園で、ちびちゃんがギャン泣き。
この春のシーズンは去年もそうでした。
ある保育士さんが言ってました。
「保育園児には不登校はないんですよ。サイズ的にひょいって、嫌でも運ばれちゃうから。」
あ~なんて…切ない。
保育園や幼稚園時代の経験って、思っている以上に大事。
そこから小学校に上がる時の連携は、もっともっと丁寧にされてよいはずです。
それが、不登校を減らすというよりは、「理解を得られないこと」が減り、自己肯定感が守られることにつながると考えます。
保育無償化で、お母さん達働きに行きやすくなるとは思うけれども、だったらなおのこと、お子さんの何かが気になっているお母さんや、子どもの様子をみんなで見守るシステム、その為の時間も保障して欲しいです。
テレワークの普及や、子どもに対応するための休暇が、全国的にもっと取りやすくなったらいいのに。
それもお母さんだけではなくて、お父さんも。
子どもが調子が悪い時は、躊躇なくお仕事休めるとか…。
そしたら、学校に行きたくないって言いだした時に、「じゃあ今日は休もうか。一緒に映画でも観に行こう」「ドライブで出かけて美味しいスイーツ食べてこよう」とか言えるかもしれないのに。
私が、ニュージーランドに行った時は、仕事抜け出してお迎えとか当たり前に行われていました。
働かざる者食うべからず、とか
不登校は怠けている、といったステレオタイプは時代錯誤です。
働きたくても働けない人もいるし。
不登校の子=学校に行きたくない子ではありません。
家にいることだって、家事や育児を頑張っていることだって立派な働きです。
私が、「働く」とか「勉強する」という言葉の定義について考え直すことができたのも、子どもが不登校になったことがきっかけでした。
不登校を「ギフト」に変える。
この言葉を聞いて抵抗感を示す方はいらっしゃるでしょう。
今はそう口にしている人たちも、賛同してくださっている皆さんも始めから「ギフト」という言葉を受容出来ていたわけではないと思います。
「この今のしんどい経験が何かにつながりますように…。」
「ギフト…?になるのかな。そうだったらいい。」
と祈る思いで日々を過ごし、
「あ、これでいいんだ。」「大丈夫なんだ。」と、薄紙を剥がすように「肯定される」を重ねながら、心の平穏を取り戻す。
そして、ある時子どもの変化に気付き、子どもがそこにいてくれること、生きていてくれること、笑ってくれること、その当たり前のことに感謝できるようになる。
苦しい経験をしたからこそ、当たり前のことや、小さな変化を喜べる。
そんな感覚を持って生きていられることこそ「ギフト」だと私は思うのです。