同情という名の上下関係
「うちの子が学校で〇〇〇をしてきて・・・。
あ、ごめんね。不登校の子のお母さんいるのに。」
このような会話。
嫌な気持ちというよりは、
「謝る」って、どんな心理だろう?と考えました。
子どもが不登校になってすぐの頃には
やっぱり周りが羨ましく思えて
元気にしている同年代の子を見ると
物悲しくなったりしていました。
その心境の時に
「ごめんね。」と言われたらどう思っただろう?
立場の差をよりクリアに感じてみじめな気持ちになったんじゃないかな。
心配そうな目で見られたり、
スーパーで会ったママ友に「心配だ。」
と泣かれたこともありました。
そういう時はなんだか
自分の描いているギャップが現実化したような気持ちになるのでした。
同情してくださる方には、ありがたいのだけれど
気持ちを打ち明ける気になりませんでした。
「こんな過ごし方もアリだよね。」と認めてからは
同情を示してくださる方々に
より違和感を感じるようになりました。
不登校だと元気でいちゃいけないの?
家に籠って泣いてるイメージなの?
「不登校大変だよね。」
と思っている方は不登校の実態を知らないからだと思います。
もし、それがMiserable(みじめ)に感じるならば
その概念を創っているのは一人一人の意識です。
今、経験してきて思うのは
行ってるも行ってないも違いにすぎないということ。
「行かない」「行けない」となった途端に
それまで並列だった関係性に上下が生じる。
行く、行かないはそんなに大きな差なんだろうか?
「なんか違う」と思いながら行ってる子と
「違う」「合わない」を認めて、家で過ごして建て直そうとする子
どっちがどう?
どこにも優劣はなくて、その子がその子であるだけです。
どこにいたって、何をしていたって
その子はその子以上も以下もありえない。
「クラブ・イクミナル」は
誰もが尊重される安心できるコミュニティです。
誰にも相談できない。
わかってくれる人がいない。
それだけでも、大きな環境の変化です。
人は受け入れられて初めて動き出せます。
お母さんは特に元気でいて欲しいから
ひとりで抱えずに
こっちの世界でママ友コネクション拡げましょう!